千葉が生んだ奇跡の偉人・伊能忠敬ゆかりの地を歩く(佐原・九十九里)
千葉が生んだ伊能忠敬の出自を辿る(前編)『千葉 地名の由来を歩く』人物編
伊能忠敬の苦労の生い立ちと九十九里
伊能忠敬は延享(えんきょう)2年(1745)、上総国山辺郡小関村に生まれました。現在の山武郡九十九里町小関。
ちょうど九十九里浜のど真ん中といったところです。生家は小関村の名主の小関家で、父は小関貞恒(さだつね)、忠敬の幼名は三次郎といいました。
兄と姉がいる三番目の息子でした。
幼少時は決して恵まれた環境ではなかったそうです。六歳の時に母を亡くし、小関家に婿入りしていた父は離婚され上総国武射(むさ)郡小堤(おんづみ)村の実家に帰りましたが、三治郎はそのまま小関家に残されたといいます。
その後三治郎が10歳になった時、父の実家に迎えられ、小堤村で過ごすが、三治郎は17歳の時伊能家に婿入りすることになり、佐原に移ることになります。
九十九里平野の田んぼが広がる一角に千葉県指定史跡「伊能忠敬記念公園」はありました。
看板には「たまたま、小関家は漁業を経営していたので小関家納屋番として起居し三次郎苦境の少年時代であった」と書いてあります。
忠敬に関する本を見ても、幼少時の記録はほとんどなく、苦しい境遇を生きたという書き方が大半を占めています。
公園の一角には測量機の脇で天を指さしている像が建てられています。
その後、伊能忠敬が商人として活躍するも、49歳にして長男に家督を譲り、寛政七年(1795)には江戸深川に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)に弟子入りするのです。
さらに寛政12年(1800)から文化13年(1816)に至るまで全国測量を続け、当時における最高精度の日本地図を完成することに大きく貢献したことは周知のことと思います。
『千葉 地名の由来を歩く』より
明日は後編、伊能忠敬の第二の人生を探ります。
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